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獣の叫び [短編小説]

獣の叫び


                   秋乃 桜子


「私は、森が嫌いだ。
暗闇で吼える獣の声は・・・
私を幼い頃の不安な気持ちに連れ戻そうとするから・・・」


京子の母、三津子は昔ながらの女だった。
夫にも口答えせず、気持ちをひとり心の奥に閉じ込めておくタイプの女だった。
そんな母親を見ていた京子は、男に対して,ある不信感を抱いていた。
母は普段は着物を着ていることが多かった。
京子の友達のお母さん達はエプロン姿で活発に見えたが、母は古風な女に見えた。
外に働きにでる事も許されず、
ただ一人娘の京子のためにだけ生きてきたような、
そんな女だった。

ある日、そんな母を気遣って、実家から、急いで実家に戻れと言う電話が。
母はバタバタと身支度をして夜行列車に乗り込んだ。
実は何事もなく京子の祖母は娘、三津子に会いたいばかりに、嘘をついたのであった。

残された当時小学生の京子は、
明日は泊まりの出張という父について行くために学校を休んだ。


翌朝、ジープに揺られて車酔いをしながら京子は山の奥深くまで入っていった・・・
乗り物に弱い京子にとって嫌になるほどの長い時間に感じた。
父から仁丹を貰い口に含みながら・・・。
仁丹は辛かったが、口の中で溶けていく間は車酔いを少しだけ遠ざけてくれるような気がした。
砂利道が続き、着いたところは何もない山小屋のようなところ、
近くには小川が流れ、小鳥のさえずりが、都会の喧騒など聞こえもしない。
・・・そんな、世界が広がっていた。
土木関係の仕事をしていた京子の父は、
山に出張と言う度に、この事務所には何度も足を運んでいたらしい。


特別な挨拶もなく家に戻ったように京子の父はその建物に入っていく。
「せっちゃん、娘を頼むね!」
親しげに、他人の女性と会話を交わす父を見るのは初めてだった。
家では寡黙で、笑い顔など見たこともなく、母には厳しい父であったから・・・。
まして、せっちやん・・・?

昼近く、父は、後から来た作業員たちと出かけていった。
残された京子は、その・・・せっちゃんと2人っきり、
せっちゃんはこの事務所の若い賄いさんらしかった。
仕事があるときだけ山の、この事務所に入るらしい。
父のいない間、京子に気を使ってくれたのだろう、
川に誘ってくれたりしたが・・・京子は部屋の中から動かなかった。
たった、1台の古びたラジオから途切れ途切れに聞こえる音に、
京子は必死に聞き耳を立てた。

仕事から戻った父は、この山小屋のような事務所に泊まる事になっていたらしい。
夕飯は、父とせっちゃんという若い女性と3人きり、
外は星さえ見えない木立に埋もれる山の中の事務所。
せっちゃんの作ってくれた夕食は質素ではあったけれど、
母の作ってくれたそれより・・・美味しかった。
「美味しいだろ~ぅ!?」と言う父の笑顔。
初めてみたような気がした。
母の手料理で、こんな事は今までなかったから。
始終ご機嫌な父。

森は夜が早い。
京子は広い畳の部屋に夜具をしいてもらった。
父と同じ部屋に寝る事は記憶にないくらいの昔だったと思う。
小さい頃から自分の部屋で寝ていた京子は布団が二つ並べられているのを見たときは
妙に不自然で不思議な感じがした。

京子は月の明かりも見えない部屋の中が怖かった。
それでも、いつの間にか眠りの世界へと吸い込まれていった。

ふと、物音で目が覚めた京子は奇妙な声を聞いた
獣の叫び?・・・生ぬるい叫びが続いた。
怖くなった京子は、隣に寝ているであろう父の姿を探した。
暗くて何も見えない。
こんなに近くなのに
声をかけて返事がなかったらどうしょう・・・京子は一人震えていた。
声など出せなかった。
起こしたら怒られそうな気がしたから・・・。
目を大きく見開き隣の父を何度も見たが
父の姿は確認できなかった。
一筋の光も漏れてこない暗闇の恐怖を初めて知った。
そのうちまた、眠りに落ちていった。

翌朝、父も、せっちゃんも機嫌が良かった。
二人の機嫌の良さと、お天気が京子の昨夜の出来事を忘れさせてくれた。
次の日、京子は優しいせっちゃんと、川遊びをした。
楽しかった記憶。


数年が過ぎ、その、せっちゃんは父のところに結婚の挨拶に来た。
隣には優しそうな男性が・・・。
なのにせっちゃんは、泣いていた。
「ありがとうございました。お世話になりました・・・」
そのときのそばにいた母、三津子の顔を京子は記憶していない。


大人になった京子は
ふと思い出した・・・。
あの森の中のうめき声は・・・
父と若い娘の・・・

自分が異性を意識し、
子供の頃聞いたあの森の中の暗闇の部屋で聞いた正体がようやく分かった頃・・・父はもういなかった。
独り残された母は父の裏切りも・・・多分知らずに今日のこの日まで来たのだろうと。
それとも母への父の裏切りは、ただの京子の思い込みなのだろうか・・・。


昨夜、京子は、恋人と決別を決めた。
2年もの間、半同棲生活をしていた。
その男に裏切られ、死にたいほど傷付いたの京子は
父と女と、、翔太と女と、今までの愛と憎しみと、ありったけの気持ちをぶちまけた。
短い言葉で、
「もしもし翔太、私、あなたの車の中で死ぬわよ!」

翔太が書いている小説の中の女のように・・・
翔太の携帯に電話をした。
裏切られた京子の情けないほどのささやかな復讐・・・
言葉だけの復讐、
こんな男の為に死ねる訳がない。
いや、まだ未練が心の中で渦巻いていたのだった。
電話をしながら、涙と笑いが止め処もなく京子の口から漏れていった。


ノックの音がした

「京子?京子いるの?」
しばらく振りで母の声を聞いた。
「おかあさ~ん!」
涙が止まらなかった
「どうしたの京子、大丈夫?」
泣きながら京子は答えた
「うん!・・・お母さんの作った美味しいご飯が食べたいの!」
「何がいいの?どうしたの?」
「お母さんの作るものなら何でもいいよ~ぉ!」
涙声が笑い声に変わっていく瞬間であった。

                        

                        完


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